創生・新しい日本

政治、経済、文化、社会・・・これからの日本を担う世代の提言Blog

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民主党は2ちゃんねらーと同じか

香川の祖母・孫3人行方不明事件の結末は「祖母義弟による殺人事件」となった。
が、事件発生から今日に至るまで「2ちゃんねる」をはじめとするWeb上のコミュニティでは「あの父親が怪しい」と言わんばかりの(あるいは完全に断じている)空気がありありだった(画伯という通称まで付いていた)。
結果として、その父親は娘2人を期せずして失ったばかりか、世間から犯人扱いされ、加えて親族の犯行というショッキングな事実に追いつめられることになった。
この一件は、同情してもし切れない。

一方国会では、額賀福志郎・財務大臣が守屋武昌、宮崎元伸らと宴会に同席していたのではないかという疑惑をかけられていた。事の発端は守屋自身の証言によるが、民主党は「第三者の証言」「座席表」などの「証拠」なるものの存在を明らかにした(結局「第三者」は守屋だった)。
「証拠」自体は明らかにせず、証人喚問の応諾を求めたわけだが、これだけでも民主党の対応は可笑しい。

通常、物事に対する立証責任はそれを言い出した側にあるはずだ。
にも関わらず、民主党は「額賀が証言すれば済むこと」と他者に立証責任を転嫁したばかりか、「やましいことがなければ喜んで証言すればいい」などと中傷とも挑発とも取れる言い草を放った。
考えても見ればよい。事実かどうかもわからない(怪しい)巷の流言蜚語のような類について、いちいち大臣に立証責任を転嫁していれば大臣は仕事などやっていられない。百歩譲って民主党の論理を認めたとしても、それは自民党からすれば小沢一郎(巨額の寄付を受領)や東祥三(小沢側近・山田洋行顧問の経歴も)をも証人喚問できることになる。
「一緒に飯を食っていたのではないか。裏に何かありそうで怪しい」と言い出せば、「巨額の寄付はなぜ行われたのか。裏に何かありそうで怪しい」、あるいは「元代議士がなぜ山田洋行の顧問まで務めたのか。裏に何かありそうで怪しい」という話も出てきて可笑しくないからだ(ちなみに東は今、地元選挙区で次期総選挙に向けた選挙活動をしている)。

ここまで述べれば諸氏もお分かりだろう。
他人を根拠なき飛語で貶め、しかもその立証責任までもを転嫁する行為が如何に品格も常識も欠如した行為であるかが。
しかも、初めは証言者は宴席に出席した第三者というニュアンスだった(それが心証としての信憑性を高めた)はずが、結局"証人は証人の証人"という自己矛盾だ。ここまで来れば空気が読めない(KY)どころか、頭が弱い(AY)のではないか。

念のため申し上げておくが、私は額賀大臣の宴会出席疑惑が"シロ"だと断定しているわけではない。尤も、昨日の自民党の調査結果からすれば、我々の生きる三次元の世界では"クロ"はあり得ないことだろうが(ちなみに私は現在支持政党を持たないので誤解無きようにお願いしたい)。

少なくとも、根拠も何も明確に示せず、立証責任さえも果たせない今の民主党は、2ちゃんねらーどころか小生意気な糞餓鬼と同類だ。
全く、詭弁にも使い方と言うものがある。下に良書を紹介したので勉強し直すとよい。

政策提言の価値さえ見出せない国会の醜態を見せられ、幻滅する国民の気持ちくらいは理解していただきたいものだ。 (Y・K)


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大学生の学力保証のための提案

先日、教育再生会議が大学入試改革の素案をまとめたが、その骨子が「高卒学力テスト」の導入だ。

推薦AO(アドミッションズ・オフィス)方式により学力ベースの試験を受けずに大学に入学する人間は今や半数を超えているというが、それと同時に進行しているのが大学生の学力低下だそうである。
低下の度合いやその見方については割愛するが、大学生に一定以上の学力が保証されない中で大学に「国際競争力の向上を」と発破をかけても始まらないのは確かだろう。

その点において、入試の方式を問わず全入学志願者に受験を強制する「高卒学力テスト」の導入は妙案であると言える。
が、日本の大学の国際競争力の強化(相対的な学力はもちろん、研究レベルやその他人材育成・就職等も含めて)を念頭に置けば、一律のレベルで線を引き、高校卒業段階での最低限の学力を担保させるのは非効率であるとも言える。

例を挙げれば、日本における最高学府である東京大学と、"日東駒専"などと呼び称されるような大学において必要とされる「最低限の学力」は全くレベルが違う。
特に私大においては生き残りをかけてカリキュラムに特色を出し、独自の方向性で結果を出そうと努力している大学もあるだけに、単一の「学力テスト」で大学生の最低学力を保証するというのは無理があるのだ。

そこで私は、段階別の統一学力テストの導入を提唱する。
全国一律、全入学志願者に受験を強制する点は再生会議の案と変わらないが、①各大学独自の学力ベースの入学試験を全廃し、②出題レベルを5,6段階に分け、③科目を相当数(基本教科の他、外国語や情報処理その他の特殊なものも含め)用意し、④各大学・学部が②、③について基本的に自由裁量で志願者に指定出来るようにする、という点が特徴だ。

恐らく、こうした提案を行うのは私が初めてだろう。

それぞれの点について、まず①はこの制度が骨抜きにならないために必要不可欠な条件である。
この制度案の着想は、日本の大学が「入るのは難しいが、出るのは簡単」とされる仕組みであることへの問題視にもある。こうした仕組みであることが日本の大学の国際競争力をある程度落としていることは明白だ。よって、入試問題自体からあえて独自性を奪うことによって、客観的に必要な素養を持った学生を大学が責任を持って「特色ある人材」に育てていくという新しい仕組みを作りたい。

特に上位大学において、毎年趣向を凝らして難易度を高めた入試問題が花盛りだが、最初から大学ブランドに向いた優秀な学生を採れば、就職実績でもそれを反映した結果が出るのは当然だ。
問題は、その入試から就職までの間の4年間に、大学が学生に対して明確な教育効果(専門的な技能、知識の習得から社会人としての素養まで)を発揮できないことにある。この傾向は特に、文系学部において顕著だ。
有名・名門大卒業生でも「使えない」という風評がしばしばあるのは、正にそうした問題点が顕在化しているからではないか。

②、③、④についてはより子細な検討を要する。
が、あえて述べれば、現在全国の大学で行われている一般的な入学試験の科目を取り入れ、科目の選択と出題レベルについては大学・学部の裁量に任せるものの、第三者機関の審査が必要となる仕組みが理想だろう。
第三者機関が大学の教育の成果を多面的に評価し、それと照らし合わせて著しく不当な科目・レベルの選択を大学が行った場合には是正を勧告できる仕組みだ。

こうした仕組みにより、各大学は同じスタートライン(同じ入試問題・制度)から如何に優秀な大学生を育てることが出来るか、より公平に競うことが出来る。
現在は下位に甘んじている大学も、教育の成果を正当に評価されれば名門校に仲間入りを果たせる可能性がある一方で、上位大学でも怠慢的教育を続けていれば一気に落日の憂き目に晒される。
大学間に自由競争の仕組みを導入し、国全体で大学の競争力を底上げできるカギとなるだろう。

国立大学も独立行政法人化され、より大学それぞれの実力が重んじられる環境となった。
が、それでもまだ虚像の「大学ブランド」が幅を利かせ、大学の競争力を削いでいる側面が強くある。
GDPでは世界第二位の我が国が、大学ランキングでは最高位の東大でやっと20位(国連開発計画調べ・07年度)となっているのは決して偶然などではないはずだ。
入試偏重・教育軽視の現在の大学制度を根本的に改め、競争力の強化とより多様で有能な人材の育成を実現するために、私はこの新制度を提唱したい。 (Y・K)


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"free"は"free"ではない

タダのモノが増えた。それに従って、情報もタダで得るのが当たり前になった。
今やニュースは全て地上波テレビかニュースサイトで見るという人も多い。

そういう流れの煽りを最も食らっているのが新聞である。
新聞の発行部数は97年の5377万部をピークに減少傾向にある。99年から2000年にかけて一時的な持ち直しはあったものの、それ以後は一貫して減少し続け、06年には5231万部まで下げている。
特に凋落が激しいのはスポーツ新聞だ。元々情報源としての価値が一般紙ほど認められない媒体であるため消費税増税や景気の悪化の影響をまともに食っており、部数は658万部(96年)から525万部(06年)と10年間で3割近い減少を記録した。

付け加えれば、これらの数字の出所は全て新聞協会の調べである。
各地で明らかになっている販売店への押し紙問題について、その存在さえ認めない新聞社が自ら作った業界団体の調べだからその点を織り込んで見る必要もあろう。
実態はもっと酷いかもしれない、ということだ。

が、こういう状況を「傲慢な大メディアの崩壊だ」などと喜ぶのは良くない。
このネット社会にあってなお、時間軸が最も長いメディアである新聞は、良い意味でも悪い意味でも権力に対する監視の機能(「第四の権力」とも言われる)を持ち、発揮している。
それが部数減による広告収入低下で弱まれば、我が国は最も「第四の権力」のあり方に近いメディアを失うことになる。

各紙の報道姿勢にそれぞれ批判があるとはいえ、新聞が我が国の国民の知的レベルを一定以上に保っている重要なインフラだということも忘れてはならない。
欧米など階級・階層化された社会では、富裕層は高級紙を、一般大衆は大衆紙(日本で言えば日刊ゲンダイ並みかそれ以上にレベルが低い)を読む。この区別は極めて明確で、裏返せばそれだけ経済的格差も教育の背景も日本より悪い状況にあるといえる。

ところが日本では、「一般紙」といえば全てグローバルスタンダードで言う「高級紙」だ。
新聞の非購読世帯は3割(首都圏)と言われるが、それでも最低7割の国民が毎日高級紙を読むという状況は全世界で日本をおいて他にありえない。
これには、我が国が江戸時代から世界一識字率が高く(特に男性)一般大衆レベルでの文芸も栄えたという文化的背景もある。

ロンドンなど欧州の主要都市では、日々のニュースについてさえも無料紙・フリーペーパーでのみカバーしようという人々が多くなり、結果として既存の新聞社の経営が非常に厳しくなっているが(それがあの再編の嵐になっている)、先に述べたような背景のある日本ではこういった現象は起こりにくい。

話は少し逸れたが、こうしたことを考えれば新聞の衰退をただ横目に見ているわけにはいかない。
より効率的なメディアのあり方を考えるとともに、有用な情報や社会的機能にはしっかりとした対価を支払うという「社会的常識」を改めて醸成していく必要もある。
そのためには、「情報はタダ」という新常識を作ってしまうような現在の情報接触のあり方が望ましくないことは言うまでもない。

今の大メディアは情けないが、そうであっても彼らが存在するために我々の国民としての自由も担保される。
そう、自由(free)はタダ(free)ではないのだ。

言い換えれば、「タダより高いものはない」。よく言ったものである。 (Y・K)


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