創生・新しい日本

政治、経済、文化、社会・・・これからの日本を担う世代の提言Blog

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反社会的な行政処分乱発

NOVAが破綻したが、猿橋氏が散々引き伸ばしたがために負債が膨れ上がっているようだ。
が、今回の件に関して言えば、私は行政(NOVAについては経済産業省)が全面的に悪いと考える。

このところの行政処分の乱発ぶりは異常だ。
フルキャスト(経済産業省)やウェザーニューズ(気象庁)など、明らかに不当な処分も散見される。
その流れのなかで起きたのが今回のNOVAの事態だ。
NOVAへの処分理由自体は不当ではないが、その過料があまりにも大きすぎる。 受講料補助を取り消せば受講生が一気に離れることは読みきれたはずだが、それに対して行政としてとるべき対応を怠ったことは許されざる愚行だ。

処分を出すのはいいが、その後の対応を全て処分対象企業に丸投げするのが果たして妥当と言えるのか。一罰百戒とばかりに最大手企業に過剰なまでに厳しい処分を下すことが"流行って"いるが、コムスンにしろNOVAにしろ馬鹿を見るのは処分企業自体よりも職員や客だという当然の帰結に、毎度のことながら呆れてしまう。


NOVAの話題に隠れているが、今日はみずほ証券も金融庁に処分された。
こちらは顧客情報の扱いに関するもので一見正当なものだが、先進諸国には少ない「銀証分離」規制への抵触という点で行政側の不手際が遠因に見える。

金融市場の規制改革(もちろん緩和)については、東京市場の競争力強化を主眼において「銀証分離」規制の撤廃をはじめとした諸政策の実行が検討されている。「銀証分離」の撤廃は国内金融グループの競争力強化のために必要不可欠、という認識は業界に留まらず行政レベルでも広く共有されているはずだ。であれば、行政がよりスピーディに、かつ主導的立場で規制改革を推進するべきではないのか。

国内金融に対して、なくてもよい網にかかった魚をモリで突くようなやり口で対応するのが果たして国益に適うものかどうか、証券取引等監視委員会と金融庁はよく考えるべきだ。

日本の金融市場の弱体化は、円の主軸通貨からの脱落という事態が雄弁に物語っている。
GDPで日本に遠く及ばないイギリスポンドがなぜ円よりもプレゼンスを発揮するのか。それはイギリスが勇気を持って規制緩和を行った結果、ロンドンが国際金融センターとしての地位を向上させたからではないか。
このところの"経済動乱"で既に円キャリートレードは一旦完全に終息したが、それでも「万年円安」状態から抜け出せないのはなぜか。単純に「低金利だから」という理由で片付けられる問題ではないだろう。慢性的な円安は、一時は輸出企業に有利であっても、確実に日本人の所得さらには経済水準に悪影響を及ぼす。

金融庁には、日本橋に擬似カナリーウォーフを作るよりも先にやるべきことがある。
そして他の役所も、無用な規制をタテに民業を潰すよりも先にやるべきことがあろう。


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"KY"は罪か

世間の今の「常識」を列挙してみる。
・日本は史上かつてない格差社会である ・規制緩和をはじめとする「市場原理主義」的政策は悪だ ・小泉改革の行き過ぎで地方は疲弊した ・そしてこういった主張を認めないのは「KY(空気が読めない)」だ ―

これらにはそれぞれ嘘や詭弁が交じっているわけだが、何せこの国ではマスコミの言うことは全て正しいと知らず知らずの間に信じ込む国民が多い(こういう人々を「SG(洗脳された愚民)」と呼ぶ)。

"SG"は、無知ではなく無関心だ。という以前に考えることを知らない。知っていることを元に考えれば、マスコミや世間が「常識」としていることがその名に相応しくない疑わしき俗説であることなど容易に看破できる。

「格差」とは何か。それを最も明確に体現するのがスラム街だが、日本にはそれはない。
あるいは生まれた子どもを「間引き」と称して殺したり、娘を売り飛ばしたりしていたのはつい7、80年前までの話だ。
そんな時代よりも今のほうが「格差」があるとするならば、格差という言葉は一体どういう意味なのだろうか。

「市場原理主義(これも悪意ある俗称だが)」とは何か。市場という効率的な富の分配スキームを否定したそれと対極の思想は「社会主義」だ。ハイエクは社会主義とファシズム(全体主義)は同じだと喝破した。近代自由主義、そして民主主義は商業の自由から生まれたこともまた彼の指摘するところだが、規制を志向し人々から経済的自由を奪うことは結果的にファシズムに帰結し、破綻に行き着く。
嘘だと思わばソビエトを見よ。この一言に尽きる。

「地方の疲弊」とは何か。つまるところ、公共事業費削減や地方の財源不足による行き詰まりではないのか。これは財政再建の流れに従った当然の帰結であり、小泉改革の悪行などというのは大嘘である。小泉改革が地方に何をしたのかといえば、例えば構造改革特区制度」の創設だ。街づくりや教育など、様々なテーマで規制緩和を行った結果それらは多くが成功を収めている。これこそが、小泉改革の結果だ。

最近の反改革論調を見ていると、ハイエクの「人々は一旦自由主義による経済的恩恵を受けると、こらえ性がなくなり再び規制を求めるようになる」といった趣旨の言葉を思い出す。
本当にその通りだ。今の日本社会で自由主義経済の恩恵を受けていない人間など一人もいないはずなのだが、どうしたことだろうか。

上に述べたことに何一つ詭弁や嘘はない。それでも"KY"と呼ばば呼べ、と言うものだ。
そのレッテルをこそ、我々は名誉の勲章としたい。
そんな「空気」など、読んだがお終いである。 (Y・K)


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経済的自由への憧憬

シンガポールで政府批判をした野党トップが逮捕されたという。
政府はミャンマー軍政との経済関係の深さを指弾されることに神経を尖らせているようだ。

改めて考えさせられるのは、開発独裁のモデルケースであるシンガポールの言論統制の凄まじさだ。
読売新聞では「国内での政府批判は絶対に許さない」と指摘されていたが、一方でチャンネルニュースアジア(CNA)などの国際報道機関も同国に拠を構える。

経済発展のために重要なのは、言論の自由ではなく単に経済的自由のみだということなのだろうか。

ちなみに、私はリー・クアンユーを尊敬している。
国家の発展過程においては、ある段階で開発独裁の政治体制が必要になる場合がある。
シンガポールは、その開発独裁で成功したモデルケースだ。

リー・クアンユーは、マレーシアから分離独立した小国シンガポールが生き残るためには経済発展が欠かせないことをよく理解していた。
しかも、面積も小さいから資源なり工業ベースで経済発展を実現することが難しいことも悟っていた。

結果として選んだのが、シンガポールを「世界のヒト・モノ・カネの集散するハブ」にするという戦略だった。
人流・物流では港湾整備と関税撤廃を組み合わせ、金融では徹底した自由化・規制緩和を導入。その結果、シンガポール航空やテマセク・ホールディングス(政府系投資機関)をはじめとする国際的な勝ち組企業を擁するに至った。

私は、今後の日本の歩むべき方向性をこの国に見出している。
国土が狭く、資源に頼った成長も望めない日本では、北東アジアのハブとしての徹底した人流・物流・金融の規制緩和が必要だ、というのが私の信念である。

「ものづくり日本」という幻想も、早く捨て去るべきだ。
技術は、その活用において発生するコストが一定以下になれば一気に労働力の安い国に流れ去っていく。
その前提に立って言えば、日本の製造業は常にリードタイム技術を持っていなければならないはずだ。
が、今や日本が確固たるそれを有している産業は非常に少ない。
それは、「ものづくり」のなかにおいて言えることである。

リードタイム技術を活かした経営で世界的に名高いあのインテルでさえ、30年それを維持するのに大変苦労している。
そのインテルより優れた経営機構なり技術的バックボーンなりを持っている日本企業が1社でも日本にあるだろうか。
要するに、日本の製造業は既に競争力の源泉をほぼ完全に失っているのだ。

それ以前に、製造業は第二次産業である。
産業発展は、第一次の農業・水産業等から第二次の製造業へ波及し、更に第三次のサービス業、情報産業へと波及していくものとされている。
今、先進国経済においてはこの第三次産業へのパラダイムシフトが起こっているというのが妥当な現状認識ではないだろうか。
にも関わらず、日本人はどこか第三次産業を小馬鹿にしているような風体がある。

その例のひとつが、少し前に流行った「虚業」論議である。
発展著しい情報産業、IT産業は全て「虚業」で、製造業こそが「実業」であるという主張がマスコミを通じて流布されたのは記憶に新しいところだ。
そもそも私は、この職業に貴賎をつけているかのような主張が気に入らないのだが、それ以前の問題として感情論で企業経済のあり方を議論する風潮に何より危機感を感じた。

ものづくりこそが実業で、サービス業は虚業だというのであれば商売人は本当に卑しい職業人ということになる。そして金貸しはもっと卑しい守銭奴ということになる。
こんな江戸時代の先祖も驚くような感情論を未だに得意顔でぶっている人間は、まずもってそのセンスを疑われなければならない。

例えば、電線を作っている業者は「実業」者で、NTTやKDDIは「虚業」者なのか。言うまでもなく、両者はいずれも「実業」であり、目に見えるニーズに対応した立派な商売として成立しているのだ。
虚業が本当に「虚業」なのであれば、それは実業との相互補完はしないことになるのだろうが、上の例えからも一般論からもそのようなことはあり得ない。

つまりは、我々は一刻も早く以上に述べたような妄想的思想から脱却し、第三次産業シフトの態勢を敷かねばならない、というのが私の考えである。
ものづくりは実業だ、などという気休めに現を抜かしていると、それこそ「兎と亀」の逸話の再現になりかねない。

こうして考えてみれば、言論の自由というものは真に国民が経済的な困窮におかれているときにこそ求められるものだと言えるかもしれない。
ある水準以上に経済的な余裕があれば、国民は政治への関心を失い、一方で愚民が幅を利かせる。
結果としてその国は経済をはじめとした長い迷走時代へと突入し、再び国民が困窮するまでリバイバルのチャンスは与えられない。

こうしたシナリオに説得力がないとは言えない。
今の日本の状況を見れば尚のこと、明らかである。
だから言論の自由を廃せよ、経済成長と公共の福祉こそを最優先せよ、とは言わない。
しかし、言論の自由は金持ちにはもったいない権利であるということも合わせて指摘しておかねばならない。

それがなくとも、あれだけ上手くいっているシンガポールという国もある。 (Y・K)


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